
芦田愛菜ちゃんを一躍有名にしたドラマ「Mother」。
今から15年も前、私が親になる10年も前に観たにも関わらず、今だに忘れられないセリフがあります。
「親は子に無償の愛を捧げるって、あれ、逆だと思うんです。小さな子どもが親に向ける愛が無償の愛だと思います。」
名言です!
当時の私は「ほぼ大人」でありながら「親」ではなかったため、どちらかというと子ども目線でこの言葉を受け止めました。反抗期は終えて、ちょうど親孝行について考えるお年頃だったからか、特に印象に残りました。
たしかにその通りだ…と。
そして今、三児の父となり、改めて思うわけです。
いや、もう、まじで、どうにもならんくらい、その通りだ…と。
そこで、三児の父になった今、改めて、「無償の愛」について全力で熟考してみました。
愛とは
そうは言っても、いくつになってもそもそもわからないことがあります。
それは、「愛とは」という、おそらく超有名な哲学者でも100%の答えは出せないであろう究極の問いです。
こればっかりはもう、答えを探すことをまずやめます。死ぬまで、あるいは死んでも、「わかりきれないこと」とします。
「信頼」とか「依存」という関係性の話なのか、「大切」とか「可愛い」という感情的な話なのかすらわかりません。
とりあえず「好き」という曖昧で漠然とした概念として捉えることとします。
親から子へのそれ
もちろん、「愛」の定義がなんであれ、親から子に向けるあのえも言われぬ感情が「無償の愛」であることは否定しません。いや、否定したくはありません。私自身が3人の子どもたちに対して抱くこの感情は、まぎれもなく、絶対に、一点の曇りもなく、まさしくそれだからです。
これからも彼らを守るために「生きたい」「死ねない」と強く誓いつつ、同時に、彼らのためなら命すら投げ打てると心底思っています。
見返りなど要りません。「パパじゃ嫌だ、ママが良い!」と叫ばれてもなお、それでもいいと思えます。
と言いつつ、本当になんのリターンも求めていないか、少しばかり不安になるときもあります。なぜなら、求めていないにも関わらず、圧倒的なリターンを日々受け取ってしまっているからです。
望まぬリターン
「要らないよ」と言っても、子どもたちは溢れるほどの愛を注いできます。お腹いっぱいになるくらいです。
まず、本人の身長よりも高い地点に抱き上げられてもなお、そこをまるで世界一安全で温かく幸せな場所と信じてやまないかのようにニコニコしながら身を預けてくるんです。
排泄してしまえば、「どうぞよろしく」と急所をおっぴろげ、何もかも任せてくるんです。
口元に何か(哺乳瓶)を突っ込めば、毒味もせず何も疑わずむしゃぶりつくんです。
親の温もりを失えば例えそこが安全なお布団の上でも激しく泣き、去ろうもんなら拙いずり這いで必死に後を追い、目が合えば笑い、抱き上げれば座りかけの首も預けてくる。
私が目を逸らしても、心は別の家事か何かに移っていても、彼らは「この腕の中なら大丈夫」と、健気に真っ直ぐに、無根拠に信じてくる。
完全ノーガードで命を預けてくるんです。
この危険すぎるほどピュアな愛着を前に、「ああ、これこそが無償の愛とやらだ」と感じることでしょう。
「子どもは3歳までに一生分の親孝行をする」という説は有名ですが、本当にその通りです。十分すぎるほどの幸せをくれてしまっています。
私は知りたいんです。しかし、知ることができないんです。
もし、子どもから親へ、一切の愛も幸せも提供してくれないとして、私は果たして、今までと何も違わず、彼らに同等の愛を注げるか、という問いの答えを。
もう想像すらできないほど、あたりまえに受けてしまっているんです。並々ならぬ愛を。
親は、我が子から「全幅の信頼」のようなものを先にもらい、それに対して「応えたい、応え切りたい、応えられる親になりたい」と願う中で、後出しで我が子を愛しているのではないかとすら思ってしまいます。
「無条件かどうか」がもうわからないんです。わかるすべがもうないんです。それほど、子どもたちは親を勝手に熱烈に愛してくるんです!
子から親へのそれ
子どもたちはどうでしょう。
確かに、親から子へ、「命懸けのお世話」が提供されたことで形成された「後出しの愛」も一定数はあるでしょう。
しかし、絶対にありえませんが、仮に、私が彼らに、「愛」を伝える行動を何一つとしてしなかったとして、お世話することをまるっきり放棄したとして、彼らから私への愛や幸せの提供は止まるか、と想像してみると、それだけは、間違いなく、断固として、ありえないんです。
仮に、私が筋金入りの毒親で、彼らを支配して不自由を与えたとして、さらには救いようのない虐待親で、心身に致命的なダメージを与えたとして、それでもきっと彼らは私を庇い、愛し続けるはずだと、容易に想像ができます。
これを「愛」と呼んで良いのかはわかりませんが、どれだけの不条理を与えても、あまりに無防備な信頼を、切羽詰まった依存を、危うすぎる忠誠を、無条件に親に寄せてきます。
いつか大きくなって「我が親は間違っていたんだ」と理解して憎むことができるようになるその日まで、子どもたちは親の善悪を判断する力すら持たず、まるで神かのように崇めるしかないんです。
「次元が違う…」
そう言わざるを得ないほど、「無償」どころでも、もはや「愛」どころでもない、圧倒的な到達点の「何か」を、お子達は、親に対して、何故か、可哀想なほど、信じられないほど、しかも生まれながらにして持ち合わせているんです。
これほど悲しくて、これほど美しい愛はありません。この「何か」こそが「無償の愛」だと言うほかないでしょう。
種類と次元が違う
子どもたちの愛は「依存」に近いもの。好きか嫌いか、なんて言ってはいられない、親なしでは生きていけないが故の、切羽詰まった、鬼気迫った、どうしようもない愛。
親からの愛は「祈り」や「覚悟」に近いもの。好きか嫌いか、なんてのは言わずもがなで、ただただ、健康で平和に生きていってほしい、という切実な願い。そのためなら自分の一部か全てを捧げてもいいという覚悟。依存というよりは、尽くす方の愛。
「次元」という意味であれば、圧倒的に無条件である「子から親への愛」の方が上位に感じますが、愛を優しさとか暖かさを含んだ「種類」のものであると捉えると、「親から子への愛」の方がより近いように思います。
結局のところ、最初から諦めると宣言した「愛とは」という難問の答え次第ですが、「親から子」「子から親」のどちらも、種類や次元は違えど、「無償の愛」と呼んでいいように思います。いえ、そう呼びたい、そう呼べる関係を築きたい、と願います。
我が子からの愛
先日、大人の用事でららぽーとに行きました。ベビーカーに座る娘が「たいくつー」と騒ぐのが煩わしく、テキトーなシールを買い与えました。※愛ある行動ではありません
娘は日頃、シールをもらえばすぐにいたるところに全てを貼り、一瞬で飽きるタイプです。洋服の胸やぬいぐるみなどの布製品にまでシールを貼り、後で剥がれたシールが散らばり、まだ小さい弟が2人もいる我が家においてはとてもリスキーです。
ということで、だいぶ話がわかるようになってきた娘に「布には貼らないほうがいいよ。その方が長く大切にできるから。」というアドバイスをしました。※愛ある行動ではありません
娘は言いつけを守り、ベビーカーの布じゃない部分やリュックに入れて持ってきていたクレヨンの蓋、トイ・ストーリーの絵本の表紙など、黙々と「布じゃない部分」を探して貼っていました。
布じゃない部分を見つけるのに苦戦し始めた娘に対して、「じゃあママの財布のここに貼っていいよ」「パパの鍵のここもいいよ」とテキトーに大人の所有物を差し出し、時間を稼ぎました。※愛ある行動ではありません
だいたい後でシールを剥がしたのがバレて怒られるパターンが多いのであまり採用したくない手法ではありますが、大人の用事を早く済ますためには避けられません。※愛ある行動ではありません
それでもしつこく「次はどこ?」「次はどこ?」と聞いてくる娘に、私は痺れを切らして言い放ちました。
「大切なものならどこでもいいよ。」と。※愛ある発言ではありません
すると娘は言いました。
「じゃあ、ママに貼ってもいい?」
娘よ、今なんて?
「ママは布じゃない?ママが一番大切!」
ママ、悶絶です。
「パパにも貼っていいよ!パパも布じゃないよ。パパも大切?」
パパ、突然の大興奮です。
「いいよ!2個ね!」
どっちなの?大切なの?それは多いの?喜んでいいの?
親どもはもう大人のご用事すら忘れています。
「ひーくんには1個ね」
よし!弟には勝ったと見ていいだろう。そしていつも喧嘩ばかりの弟もきっと一応ちょっと大切!1個分!可愛い!
「ゆーくんには貼らない。大切だけど、まだ赤ちゃんだから、食べちゃうもんね。」
0歳児への配慮までできる!優しい!「大切」ってそういうことだもんね。立派だ!可愛い!!!
そして私たちは、大人の用事を後日に振り替え、サーティワンへと向かうことにしました。※後出しの愛。
結論
だから、私は誓います。
もしかするとこの愛は「後出し」かもしれないのだから、絶対に勝てる手を出してみせると。
十分すぎるほどの愛をもらった。十二分の親孝行も受けた。もうこれ以上は要らない。君たちの手は見えた。パパは負けない!
私は大人で、相手は子どもで、しかも後出しなのだから、たまにはわざと負けてあげることもできますが、私は大人げないくらい、全力で、圧倒的に、完膚なきまでに、勝ちにいきます。
いつかお子達が何かをきっかけに自信を失いかける日が来ても、親から愛されたという自信だけは絶対に失わないように。いつかお子達が大人になっても、「なんにせよ、愛されてきたなー」とだけ感じてくれるように。
おまけ
そして帰りがけに娘が問う。
「ママとパパは布じゃない?」
「シール、剥がれない?」
娘よ、すまん!